高野山町石道(こうやさんちょういしみち)

空海が真言密教の根本道場として開いた高野山。平安後期以降には高野浄土信仰が人々に広く広まりました。
その高野山の聖地に向かう人々が利用したのが高野山に向かう高野七口という山道でした。七口は大門口(西口)、不動坂口(京口)、 大滝口(熊野口)、龍神口(湯川口)、大峰口(東口)、黒河口(大和口)、相ノ浦口(南口)と呼ばれる七つのルートをいいます。
これらを総称して高野山町石道(こうやさんちょういしみち)といいます。
その七口の内もっともメインとなる九度山の慈尊院から山上西側に立つ大門へ通じる大門口は、 高野山開山の折り弘法大師空海が木製の卒塔婆を建てて道しるべとしたことから、現在まで高野山の表参道として利用される参道です。
鎌倉時代になると、朽ちた卒塔婆の代わりに空海の生地讃岐産の花崗岩が用いられ、高さ3m、30cm角の五輪卒塔婆形の町石が一町 (109m)ごとに建てられ、さらに36町ごとに里石(4本)が整備されました。
現在もルート上には梵字が刻まれた町石が残っており「高野山町石道」と呼ばれています。
高野山に参拝に訪れた人々は、かつて空海自身が登ったこの道をたどるとき、一町ごとにこの町石に合掌しながら、二世安泰、 欣求浄土を祈って山を登ったといわれています。
